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大宝八幡宮の由緒(詳細版)

1 八幡宮の創建と白鳳奈良時代の様子

大宝八幡宮は、白鳳時代の末期、文武天皇の大宝元年(七〇一)、藤原時忠が、常陸国河内郡へ下向の時、筑紫(大分県宇佐市)の宇佐八幡宮を勧請(神仏の分霊を請じ迎えること)して創建されたという。東国平定のための鎮護の神として、八幡宮を勧請したのである。宇佐八幡宮は、莵狭津彦命を祖とする宇佐諸石が、欽明天皇二十九年(五六八)に八幡神を勧請したのに始まるという。八幡神とは、応神天皇を主座とし、文武の神として尊崇されており、八幡宮の祭神として祀られる。

当時の河内郡が現在のどこを特定しているかは不詳であるが、慶安元年(一六四八)七月十七日付の家光公の御朱印状には、常陸国河内郡下妻八幡宮領同郡大宝村云々とあり、江戸時代には、下妻、大宝は河内郡に含まれていたことになる。下妻、大宝あたりは古代には新治郡に含まれており、時代によって河内郡、新治郡、真壁郡などと呼ばれていた。

古事記(七一二)に、日本武尊が東征の時、足柄峠を越えて、甲斐(山梨県)に出、甲府市東方の酒折の宮に御座所を構えた時、次のように歌っている。「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」と。これにたいして、火焼きの老人は、「かがなべて 夜には九夜 日には十日を」と、歌をついだので、日本武尊は老人を誉めて、東国の国造にしたという。このことから、既に、常陸国の新治、筑波が史書に登場しており、東国の討伐支配が行われていたことが判る。この新治、筑波は、新治郷と筑波郷ともいわれ、筑波の西北一帯を指している。従って、東国平定の鎮護の神として、当地に八幡宮を勧請しても不自然ではないのである。また、万葉集巻第九に、「筑波山に登る歌一首 短歌を併せたり」という雑歌があり「筑波嶺に登りて見れば…新治の鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ…」とあり、筑波山頂から西の方を眺望した鳥羽の淡海(大宝沼を含む)が詠まれており、当時は、下妻市から関城、明野町にかけては、満々と水を湛えた広大な湖沼があったことが判る。この歌は、養老三年(七一九)常陸国の国守として藤原宇合(うまかい・鎌足の孫)が赴任しており、前後して国府の主帳として赴任してきた高橋虫麿が、国司の財政監査のため大和からきた検税使大伴卿を筑波に案内した時に詠んだものといわれるから、七二〇年頃の作と推定される。大宝八幡宮が創建された頃の当地の情景を伝える歌でもある。なお、高橋虫麿は万葉集の歌人でもあり、宇合の下で常陸国風土記の編纂に参加している。

祭神は、仲哀天皇・応神天皇・神功皇后であり、「大宝」という名称は、創建時の年号の「大宝」に由来し、大宝という年号は、三月に対馬の国から金が献上されたので文武天皇が「大宝」と改元したといわれる。それまでは年号で呼んだり、年号をつけずに持統、天武など天皇の御名で呼んだりしていたが、これ以後は年号で呼ぶことが定着している。さて、年号は、タイホウと読むが、大宝八幡宮は、訛ってダイホウと呼ばれている。千古の歴史を秘めた大変目出度く、由緒のある名称である。 仲哀天皇は、日本武尊の皇子であり、応神天皇は、仲哀天皇と神功皇后の皇子で、日本武尊の孫にあたる。日本武尊(小碓命・倭建命)は、古事記の記載によれば、熊夷征伐や東国征伐で知られている神話の伝説的英雄である。

「大宝八幡宮往代記写」巻末
また、大宝元年八月には大宝律令が制定され、律令社会の始まりとなった年でもあり、天平時代の幕開けという、歴史的にも画期的な時期であり、大宝八幡宮は、その後日本の歴史、文化とともに壱千参百年を閲し、その間、何度か火災で社殿等も焼失しているが、その都度再建され、中断することなく連綿として現在に至っている。なお「大宝八幡宮往代記写」によると、修験道の祖といわれる役小角(えんのおづぬ)が大宝二年に、江(騰波の江)の古沢黒島の近くに出た怪しい青火を鎮めたことに始まり「舟守」の社として信仰を集めたともいう。この役小角は、妖言をなし世をまどわすとして、文武二年(六九九)、伊豆島に流がされたが、大宝元年(七〇一)一月に赦免されている。いずれにしても「大宝」という呼称から徴しても大宝元年頃の創建と考えられる。大宝八幡宮に関する奈良時代の記録や史料は見当らず、社伝の言い伝えだけであり、奈良時代の八幡宮についての由緒については詳らかではない。

2 平安時代から鎌倉時代の様子

平安時代の康平五年(一〇六二)、源義家が、安部貞任を討って凱旋した時(前九年の役)、自ら神社に詣で祀田若干を奉り、戦功を賽(祈願成就のお礼)したという。
なお、下妻市二本紀には、前九年の役で義家らに敗れた安部宗任を祭神とする宗任神社がある。その神社の東約一・五キロ離れた、千代川村宗道の地にも宗任を祭神とする宗任神社がある。社伝によれば、天仁二年(一一〇九)奥州鳥海山麓をあとに、神命を奉じ南下した宗任の旧家臣二十余名が、幾多の苦難を踏み越え、下総滑田郷、松岡郷(下妻市内の二本紀あたり)を経て、この地に神示により宗任神社を創建したという。ちなみに、義家に敗れた宗任自身は、康平七年(一〇六四)伊予に流され、三年後には太宰府に移されている。義家が戦功を賽したという大宝八幡宮の近くに、義家に敗れた宗任(安部貞任の弟)を祭神とする神社が、旧家臣団により創建されたとは、実に不思議な因縁である。

「大宝八幡宮之景」によると、文治五年(一一八九)には、源頼朝が、奥羽の藤原泰衡を討ち、平定した九月十八日に寵臣下河辺荘司行平に命じ、摂社若宮八幡宮を勧請し、常陸大掾の支流多気弘幹(下妻荘の下司下妻四郎広幹を指す)をして両社に奉仕させた。この折頼朝は、太刀一振を奉納したという。しかし、弘幹は己れの非徳却って神明を汚さんことを恐れ、常陸国吉田第三宮の神宮寺を勧請し、弘幹の一族常陸国吉田郡の住人石川四郎家幹の一族のなかに第三宮の神宮寺、すなわち、水戸薬王院の別当職 (神宮寺の長、寺全体の事務を司る)を務めていたものがいたので、その人物に大宝八幡宮の別当職を兼ねさせた、とあるが、「大宝八幡宮往代記写」によると、承久の乱(承久三年・一二二一)に際して、都から来た久仁親王が天台宗の学匠に仏教を学び、宝治二年(一二四八)に出家して賢了院と称し、初代の別当になったという。その後、徳治三年(一三〇八)三月九日付で、大仏宗宣(北条系で、下妻荘の地頭)から別当職の補任状(ぶにんじょう・辞令にあたるもの)を受けた源成(吉田薬王院の別当・成珎)が大宝八幡宮に乗り込み、賢了院系別当と争いが起こるが、その後石川家幹の子孫が大宝八幡宮の別当になっていたことも事実であり、薬王院系の別当も何人かは、大宝八幡宮の別当を兼ねていたのである。

史料でも鎌倉時代の後期には、大仏(北条)宗宣(後の十一代鎌倉執権)が、下妻荘の地頭職として、八幡宮別当職の補任権を握っていたことが判る。さて、「八幡宮之景」の説と、「往代記写」の記録とでは別当職を置いた時期が異なっているが、ここは後者の説のほうが信憑性がある。そして、賢了院が初代別当になってからは次第に社領の境内に寺院が建立されていった。後年、旧八月九日、「お墓前祭」といって、初代別当久仁親王の墓前祭が行われていることから徴しても、宝治二年に別当が置かれたとみるべきであろう。

「常州下妻大宝八ケ寺絵図面」には、賢了院、円蔵院、日輪院、円寿院、安楽院、放光院、龍松院、教学院の八寺院が、参道から八幡宮にかけての東側一帯に整然と配置されている。この八ケ寺のあった位置は、南は、現在の大宝小学校から北は保育園に至る広大な一郭である。この他に、寺院関係の弥陀堂、護摩堂、鐘楼などが、社殿の東側と八ケ寺との間に建っており、参道西側には、若宮八幡宮の前に観音堂、虚空蔵なども建っており、絵図面には神仏習合の構成と規模の大きさなどが表示されている。これらの寺院建造物等は、明治の初め、神仏分離のためすべて廃仏棄釈されたが、江戸時代末に飛騨の匠により建造されたという護摩堂だけが遺っており、今は祖霊殿として扱われている。 なお、神宮寺とは、別当寺とも呼び、神仏習合の象徴で、神社に付属して置かれた寺院であるが、明治維新後の神仏分離により、独立したり、廃絶されたりしている。大宝八幡宮の場合は寺院が分離廃絶されたが、今も八幡宮に残る御朱印箱には、常州下妻大宝寺と書かれているし、大宝寺八幡宮と書かれた文箱や文献資料などもあり、往時を偲ばせる。

八幡宮に残る御朱印箱と御朱印状

水海道市豊岡の元三大師安楽寺も、大生郷天満宮の神宮寺として延長七年(九二九)菅原道真の遺児下総守菅原景行が創建したものであったが、現在は夫々独立している。大町の円福寺も、初めは八千代町今里の香取宮の神宮寺として同所に建立されていたが、元亀二年 (一五七一)北条氏政が下妻を攻めた時に兵火で焼失したので、多賀谷政経が大町に移転建立したといわれる。なお、この香取宮も文治五年(一一八九)、源頼朝が奥州討伐の折に創建したものといわれている。

平安時代の常陸国は、桓武天皇系の常陸大掾平氏の一族が土着して筑波一帯を支配していた。平将門の乱も一族内の領地争いに端を発しており、承平五年(九三五)将門と国香が戦った場所は、八幡宮の近辺の大串や明野町の東石田あたりが中心であったから、常陸平氏が八幡宮に関与していたことは十分に考量できる。社伝では、平将門が参籠したり、常陸平氏系の下妻広幹が八幡宮の管理運営に当たっていることなどからも推定できよう。

神宝としては、十一世紀末から十二世紀頃に鋳造されたという唐式鏡と呼ばれる鏡がある。「瑞花双鳳八稜鏡」である。径十一・二センチメートル、白銅鋳製。昭和四十年二月県指定文化財となっている。大宝八幡宮の神宝としてまことに相応しいものである。


3 室町時代から江戸時代の様子

「八幡宮之景」に、「元亀・天正(一五七〇〜九一)の頃、多賀谷修理大夫重経は、戦う毎に勝を祈り感応の著しきを以て小烏刀及び青雲刀を献じ、子孫の安康を祈る因襲、俗(習わし)を為し、崇信神徳に浴する者、毎々に刀剣を捧げ之を社殿に懸け、連綴恰も簾の如し」とあり、このようにこぞって刀剣を奉納したので、大宝八幡宮は「剣八幡宮」とまで呼ばれたという。この頃は、小田原北条氏が常陸への勢力拡大を謀り、度々、多賀谷氏を攻撃しており、両者は熾烈な戦いをしていたのである。だからこそ大宝八幡宮に必勝祈願をしては、刀剣などを奉献していたのである。

「八幡宮之景」は重経だけが刀剣を献上したようになっているが、別の資料をみると三代家植も太刀一振を奉納しているが、この太刀は、享徳三年(一四五四)初代氏家が上杉憲忠を討ったときの太刀で、名は「青雲」、銘は信房という。氏家が憲忠の首級を挙げた勲功もあり、この年、古河公方成氏により、恩賞として下妻荘及び関郡の地の領有を安堵され、それ以後下妻多賀谷氏がこの地を本拠として、大宝八幡宮を信仰、保護し、勢力を拡大して行くのである。六代政経は鎧一領と太刀「雉子尾」・「三刃切」の二振を奉納している。七代重経は佩刀の太刀、流鏑馬の神事を奉納している。このように歴代の当主は何か事あると刀剣等を八幡宮に奉納していたのである。

大宝八幡宮棟札

次に、天正五年(一五七七)、多賀谷尊経(重経)は、二年前に全焼した社寺の再建をしている。本殿は三間社流造という形
式で、その後何度か修理や屋根替えが行われ、明治四十二年には解体修理、昭和四十年に屋根替えが行われて現在に至っている。
この本殿が明治三十九年(一九〇六)四月、国の重要文化財に指定されたものである。現存する再建当時の棟札墨書銘や擬宝珠刻銘により多賀谷尊経と特定されてはいるが、再建された天正五年の多賀谷の当主は七代重経であり、前年六代政経死去の跡を継いだばかりで、まだ弱冠十九歳だった。なお、尊経は天正七年頃重経と改名しており、七代重経のことである。

余談になるが、重経は、天正八年(一五八〇)には、北条氏照、氏直らの軍勢を飯沼、弓田両城から撤退させ、下猿島に攻め入り、これを傘下に収め、その戦勝感謝のため、兵火により焼失していた大生郷天満宮を再建、鎧、歌仙図、鏡天神図等を奉納した。また、やはり戦火で焼失した元三大師安楽寺も現在地に移し、再建したという。

現在、八幡宮には嘉慶元年(一三八七)に鋳造された銅の梵鐘が遺っているが、この梵鐘は、数奇な運命を辿った南北朝時代の貴重な工芸品である。最初は埼玉県岩槻市の平林寺にあったが、まず慶雲寺に移された後、康正二年(一四五六)には下総猿島郡の星智寺のものとなった。そして、天正八年(一五八〇)多賀谷重経が猿島を傘下に収めた時に持ち帰り、大宝八幡宮に奉納したものという。戦国時代の波乱と興亡の象徴のようである。

飯沼城は猿島町の逆井城のことで、宝徳二年(一四五〇)小山義政の子常宗が逆井城を築き城主となり、逆井尾張守常宗と称した。この逆井尾張守と同人と推定される人物が、梵鐘の碑文の第三区に奉行として刻銘されており、星智寺に梵鐘を移したときに関与したものと推定される。しかし、この小山系逆井氏は、天文五年(一五三六)に滅亡し、天正の頃は小田原北条氏が、この城を拠点の一つとして飯沼を挟んで多賀谷氏と争っていたのである。そして天正八年、多賀谷重経により撤退させられ、北条氏は猿島を失っている。

慶安元年(一六四八)七月十七日、徳川家光から百十五石の朱印状を受けている。下妻の他の寺社の領地は、五石から十石程度だから大宝が如何に別格視されていたかが判る。寛政七年(一七九五)には、光格天皇から、大宝八幡宮の額字及び御紋付紫幕を下賜されている。


4 大宝城と下妻荘を支配した武将達

戦国時代の関東武士の勢力分布図

次に、「大宝八幡宮之景」には、所在地の大宝村と大宝城、そして下妻荘の支配者についても記載されており、大宝八幡宮とも関連するので解説をしておく。
 「大宝村は、其の初め大掾維幹の二子為幹が後、下妻清氏地頭たりし後、大掾直幹の二子下妻四郎悪権守地頭たりしが、」とあり、清氏や悪権守広幹は大宝村も含んだ下妻荘の下妻(一説には下津間とある)を名乗り、「下妻氏」が誕生している。大掾とは、常陸大掾を指し、常陸の地方官の意であり、平国香の子孫が、代々大掾を世襲して大掾氏と名乗っていたのである。この大掾氏一族が、つくばを中心に勢力を拡大したのである。平将門は国香の甥にあたり、将門の乱は、将門と伯父国香らとの、いわば一族内の領地争いが発端であり、国香は、承平五年(九三五)将門と戦って戦死している。将門もまた、天慶三年(九四〇)国香の子貞盛や藤原氏郷らに猿島郡北山(岩井市)で討たれたという。

参考までに平国香系の常陸平氏(大掾氏)の系図を紹介し、人間関係を整理しておく。常陸平氏の祖は繁盛の子の維幹で、常陸国水守、多気を中心とする筑波地方に勢力を拡大していった。致幹(多気氏祖)は、本拠地多気(つくば市北条)を中心とした筑波西・南麓を、政幹(豊田氏祖)は、下総国豊田を、重家(小栗氏祖)は、小栗を、広幹(下妻氏)は、下妻を、忠幹(東条氏祖)は、信太郡の東条を、長幹(真壁氏祖)は、筑波北麓の真壁などの諸地域を支配し、その居住地を苗字として名乗った。常陸平氏一族の名のほとんどに「幹」(モトと読む)という氏祖維幹以来の一字が用いられているが、これは別の苗字を名乗っても、当時は「通字」により一族を表示する習慣があったからである。

また、「八幡宮之景」には大宝城についても次のように記載し、下妻に関わる常陸平系下妻氏と小山系下妻氏の興亡について記している。
 「大宝村は、其の初め大掾維幹の二子為幹が後下妻清氏地頭たりし後大掾直幹の二子下妻四郎悪権守地頭たりしが北条義時の為に建久四年に亡び」とあり、常陸平氏の子孫が下妻氏を名乗ったことが判る。なお「北条義時の為に建久四年に滅び」とあるのは誤りで、史実では、小田(つくば市)の八田四郎知家が、広幹を源頼朝に讒した結果、頼朝の命により、知家が広幹を斬首している。かくして建久四年(一一九三)常陸平系の下妻氏は一代で滅亡し、かわって小山左衛門朝政が其の地を頼朝から賜った。しかし「吾妻鏡」によると、既に前年の建久三年に小山朝政を「常陸国村田下庄 下妻宮等」つまり、下妻荘の地頭に補任していたのである。この「下妻宮」とは、大宝八幡宮のことである。知家はまた、小田の隣邑の広幹の兄、多気義幹をも頼朝に讒し、所領を没収、追放している。しかし、所領については義幹の一族、馬場資幹が頼朝から賜り、大掾本家を相続している。

次に、「それより(広幹滅亡後)下妻四郎長政地頭にて、其の孫修理亮政泰に至り延元(一三三六)より八幡宮側の城に拠りて勤王し、興国(一三四〇)に至り春日中将顕時を助けて興良親王を奉じ、関宗祐と応援して、大宝湖の東西にて賊軍を押禦せしこと前後六年の艱苦を尽くし、其の四年両城共に陥りたる」とあるが、四郎長政は頼朝から下妻荘と八幡宮領を賜った小山朝政の孫で、下妻氏を名乗った。この長政の子が下妻政泰であり、孫ではない。「其の四年」とは、興国四年(一三四三)で、十一月十二日、両城は北朝方の高師冬らの攻撃により落城、関宗祐、下妻政泰共に戦死した。かくして、またも下妻氏は断絶してしまう。大宝城は南朝方の拠点となっていたので、北朝方と攻防のかぎりを尽くしていた。

この下妻政泰を悼んで、昭和六年「贈正四位下妻政泰忠死之地」の碑、昭和十八年「下妻政泰公碑」が建立されている。この大宝城は、今はすっかり消滅し、城跡としての面影も殆んどみられないが、今の八幡宮境内地を含む台地一帯が、昭和九年五月、大宝城跡として、国の史跡に指定されている。次に小山系下妻氏の系図と八田氏、そして下妻多賀谷氏の系譜を掲げる。

下妻多賀谷氏は、埼玉県騎西町を本貫とする武将であり、結城家の宿老であったが、氏家が、享徳三年(一四五四)、管領上杉憲忠を討首した勲功により、古河公方成氏から下妻荘及び関郡の地(三十三郷)を安堵され、下妻多賀谷氏の初代となった。氏家は、寛正三年(一四六二)には下妻城を完成し、家植を城主とした。それ以後多賀谷氏は勢力を拡大し、結城家を圧した。七代重経の代には、北は、下館から、南は、牛久市の辺りまでその領域を拡げたが、慶長五年(一六〇〇)、関ケ原の戦の折、石田三成方に加担したことにより、戦後処理の結果、重経は、所領を没収されて下妻追放の身となり、下妻多賀谷氏は滅亡してしまう。慶長六年(一六〇一)二月十七日であった。まだ四十四歳の時で、その後、重経は秋田、江戸などを放浪し、実子茂光が彦根藩に仕官していたので彦根に移り住み、失意と無念のうちに元和四年(一六一八)十一月九日死去、六十一歳であった。
 太田多賀谷の三経は、結城秀康(徳川家康の次男で、豊臣秀吉に人質として差し出されていたが、天正十八年、結城晴朝の養嗣子となった)に従い徳川方に加担したので、秀康が越前北庄に、結城十万石から六十八万石に加増転封されたのに従って越前に移り、三万石の柿原城主となったが、慶長十二年(一六〇七)七月二十一日、三十歳の若さで死去している。

一方、下妻の多賀谷宣家は、所領を没収されたあとは佐竹家にもどり、佐竹義宣(宣家の兄)が慶長七年(一六〇二)七月、常陸五十四万石から出羽久保田(秋田市)二十万石に減封された時、従って出羽に入り、慶長十六年(一六一一)には、檜山領(能代市)一万石に配置された。そして寛永五年(一六二八)には亀田城主となり、寛文十二年(一六七二)八月二十七日、八十九歳で天寿を全うしている。かくして下妻多賀谷氏の一族は、各地に四散してしまった。しかし、現在下妻多賀谷氏の流れをくむ多賀谷裕惟氏が、多賀谷家の当主として東京都内に住んでいる。そこで、今回の大宝八幡宮御鎮座壱千参百年祭奉賛会の結成にあたっては、顧問に推戴している。


5 「大宝八幡宮之景」に描かれた当時の情景

明治三十七年(一九〇四)に製版、印刷された「大宝八幡宮之景」の俯瞰図には、克明に八幡宮の配置や当時の情景が描かれている。その俯瞰図には、明治に入って廃仏棄釈された大宝八ケ寺の建造物は、既に姿を消し、別の建造物が描かれている。
先ず、正面(南側)の三の鳥居を入り、二の鳥居を過ぎると一の鳥居があり、そこを潜ると参道両側には桜並木があり、正面に拝殿、そしてその奥に本殿がある。拝殿の左側には摂社若宮八幡宮があり、右側には社務所がある。本殿右に黒鳥神社、その右後方に祈祷殿がある。
 この祈祷殿は、神仏分離されるまでは護摩堂として、江戸時代末に建立されたが、何故かこの建物だけが棄釈されずに残っていたのである。更に、社殿の両側には小祠の末社も数多くあり、神楽殿、額殿、神馬舎、水舎も描かれている。額殿は、現在は破棄され、その跡地に神楽殿が移築されている。社務所の東側には、社司宅があり、その先には駐在所がある。参道の右側一帯には旅館が立ち並ぶ。一の鳥居前を右に曲がると大宝村役場があり、坂を下ると鳥居があり、一般道路に出る。この東の鳥居口を「搦手口」、南の三の鳥居口を「大手口」と呼んでいるのは、かつて大宝八幡宮が、大宝城の中にあったことの名残りである。

そして八幡宮の西の方一帯には、鳥羽の淡海(大宝沼)が描かれ、湖面には、帆掛け船まで描かれている。遠方の景色には富士山と日光山まで配置されている。しかしながら時流と地元の要請で、まもなく「鳥羽の淡海」(大宝沼)は、四年後の明治四十一年から耕地整理が始まり、大正五年には、大宝沼耕地整理を完成している。更に、大正十二年(一九二三)には干拓工事に着手し、昭和の初めにほぼ竣工している。今は田圃が整備され、かつて舟を浮かべた水面は、秋ともなれば黄金の稲穂がたわわに波を打っている。
なお、明治八年(一八七五)、大宝小学校が放光院の跡に開校されているが、この図には記載されていない。役場や駐在所は今は跡形もないが、古老はよく覚えている。境内に描かれていた旅館も今は消滅してしまった。そして境内の周囲は鬱蒼とした檜の森に囲まれており、まさに鎮守の森の観を呈しており、「大宝八幡宮之景」は、およそ百年前の八幡宮の荘重な偉容と盛況を彷彿とさせる。なお、神仏分離後の明治の初めには、大宝八幡宮は県社に格付けされている。そしてこの頃には、八幡宮のある大宝村は、江戸時代初期の河内郡ではなく真壁郡に変っており、昭和二十九年(一九五四)四月、当時の下妻町に合併、同六月、町村合併で下妻市となり現在に至っている。


6 現在の大宝八幡宮

(1) 社殿(本社と境内社)と建造物
 大宝元年(七〇一)に創建された、本社「大宝八幡宮」は、祭神として応神天皇(誉田別命)、仲哀天皇(足仲彦命)、神功皇后(気長足姫命)の三柱を奉斎している。祭神は弓矢の神、即ち武の神として古来より尊崇されている。古くは平安時代の平将門ら常陸平氏、八幡太郎源義家、鎌倉幕府を開いた源頼朝、南北朝時代の下妻政泰、そして戦国時代の下妻城主多賀谷氏などの武将が、こぞって参詣し、武運長久・必勝などの祈願をしている。時は流れ、今は財運招福、厄除け、交通安全、事業繁栄、家内安全、安産の祈願所として信仰崇敬されている。例祭は四月十五・十六日と九月十五・十六日に斎行している。

現在の本殿は、天正五年(一五七七)、時の下妻城主多賀谷尊経(重経)が再建したもので、明治三十九年四月、国の「重要文化財」に指定されている。本殿の前には拝殿がある。この拝殿は、明治初期に建造された木造瓦葺きの重厚な造りである。後に拝殿としての機能性を配慮した銅葺き廂が取り付けられた。境内には本社の他に摂社、末社など数多くの勧請された神社が、境内社として合祀されている。
 摂社とは、本社に付属し、その祭神と縁の深い神を祀った社で、格式は末社より上位にある。末社(枝宮ともいう)とは、本社に付属する小さい神社のことである。そして本社の境内に祀られている神社を境内社と呼んでいる。

摂社としては、文治五年(一一八九)、源頼朝が下河辺行平に命じて勧請させたという「若宮八幡宮」がある。祭神は、仁徳天皇(大鷦鷯命)で、応神天皇の第四皇子である。難波に都した最初の天皇で、人民の貧しさを思いやって租税を免除したという聖帝伝承がある。若宮八幡宮の建物は茅葺きで損傷も出ていたので、現在は保護するための覆い屋が作られ、本殿の西側に鎮座している。また、「黒鳥神社」も摂社として、本殿の東側に鎮座している。祭神は大国主命と少彦名命で、本社が創建される前に当地の地主の神として祀られていた神である。大国主命は、神代の頃の出雲国の主神で、素戔鳴尊の子とも六世の孫ともいう。今は縁結びの神としても知られる出雲大社の主神として祀られている。国作りの神、医薬の神といわれる。なお素戔鳴尊は、天照大神の弟にあたる。狂暴で、天の岩屋戸の変を起し、根の国に流され、出雲国で八岐大蛇を斬って天叢雲剣を得、天照大神に献じた。また新羅に渡って、船材の樹木を持ち帰り、植林の道を教えたという。天叢雲剣は、「草薙剣」の別称で、三種の神器の一つである。
日本武尊が、東征の折、これで草を薙ぎ払ったところからこの名がつき、後、熱田神宮に祀ったという。 

末社としては、小祠ながらも、先ず、本殿の東側奥に二荒神社(祭神は事代主命、俗に恵美須様とも称えられ、漁猟航海の神、また商売繁盛の神として崇められている。出雲の大国主命の子)、稲荷神社(祭神は倉稲魂命、食物の神、稲の神)、松尾神社(祭神は大山咋命、比叡山の守護神、酒造の神)、鷲神社(祭神は天日鷲命)、熊野神社(祭神は伊邪那岐命、国固めの神、結婚の神)の五社が祀られてある。

そして拝殿すぐ右手には、祓戸神社(祭神は瀬織津姫、速秋津姫、気吹戸主、速佐須良姫の四神で、祓の所を主宰する神)がある。
 次に、拝殿前参道の西側には、奥の方から雷神社(祭神は別雷神、雷電を起こす神。鬼のような姿をして虎の皮のふんどしをまとい、太鼓を輪形に連ねて負い、手には、ばちをもつ姿態で具象化され親しまれている)、白鳥神社(祭神は日本武尊、大宝八幡宮の祭神応神天皇の祖父にあたり、神話の伝説的英雄として知られる)、大宝天満宮(祭神は菅原道真、学問の神)の三社が並び、神門の近くに押手神社(祭神は押手神、印鑑を司る神)が一社だけ離れて祀られている。

参道東側には、春日神社(祭神は武甕槌命と経津主命、武の神と航海の神)、神明神社(祭神は天照大神と豊受姫命。天照大神は日の神、皇祖神であり、伊勢の皇大神宮の内宮に祀られ、皇室並びに国民崇敬の中心とされている。伊邪那岐命の娘で高天原の主神である。豊受姫命は、豊受大神のことで、食物を司る神として伊勢神宮の外宮の祭神として祀られている)、水神社(祭神は水波能女命、水の神)、愛宕神社(祭神は火産霊命、防火の守護神)、道祖神社(祭神は猿田彦命、天孫降臨の際先導に立ち道案内をした神で、道路の悪霊を防いで行人を守護する神、つまり道祖神として祀られている。今は地鎮の神、疫祓の神、縁結びの神ともいわれる)、浅間神社(祭神は木花開耶姫命、安産の神)、開都神社(祭神は遠秋津姫命)、八坂神社(祭神は素戔鳴尊、厄除けの神)の八社が一列に並んで祀られている。

社殿や末社の他に、建造物としては、祖霊殿(旧大宝寺護摩堂であったが、廃仏棄釈の折にも偶々破棄されずに残ったもので、現在は歴代の別当や宮司とともに神葬家の御霊が祀られている)が、本殿東側に重厚な佇まいを見せている。江戸時代末頃に飛騨の匠によって建造されたという。なお大宝寺八幡宮は、明治元年(一八六八)神仏分離令が出されたのを機に、いわゆる大宝八ケ寺は廃絶され、「大宝八幡宮」神社だけとなり、明治四年には県社として格付けされた。従って、現在は大宝寺の遺構としては、護摩堂だけが、明治には祈祷殿として、そして今は祖霊殿として遺っているだけである。明治の初めに寺院等が、廃仏棄釈された時の残骸の石塔や墓石の一部が、最近まで、境内の裏の方に野積みされ、土や草に埋もれていたが、かつては大宝寺として隆昌していた往時の遺物であったことに心を痛めた山内宮司が、発掘整理し、改めてお祓いをし、慰霊祈祷をしている。

銅梵鐘

一の鳥居を入ると、朱塗の円柱が目立つ壮大な神門がある。これは昭和天皇御在位六十年を記念して、昭和六十年に建立されたものである。神門を潜ると、左方に歴史資料館と神楽殿がある。歴史資料館には、県指定文化財の「銅製梵鐘」、「瑞花双鳳八稜鏡」、江戸時代に大宝沼から発掘されたという「丸木舟」が格納されている。

その他かつて武将達から奉納されたという刀剣、甲冑類などや考古学的資料の出土遺品など貴重な品々が格納されている。そして資料館の一部は神輿格納庫として使用されている。神楽殿は、かつて本殿の東、社務所の裏にあったが、境内の整備にあたって現在地に移築され、今も祭事の折には、ここで十二座神楽などの奉納が行われている。

拝殿の西側、若宮八幡宮の手前には、神馬舎があり、拝殿東手前には水舎がある。水舎の北東、拝殿の東側には社務所と宮司宅がある。社務所は昭和五十七年、栃木県藤岡町在住の崇敬者井岡ツネ、井岡重雄によって奉献されたものである。社務所入り口の右手には神札等の授与所があり、入り口を入って左奥には客殿も兼ねた奥社務所がある。
 社殿のある境内神域参道入り口には、銅版化粧を施した大鳥居(一の鳥居)が聳えている。この他表参道(南口)には、二の鳥居、三の鳥居もあり、深遠な神苑の風情を醸している。東参道側の入り口にも鳥居が一基建立されている。

(2) 神  域
東に筑波の山なみを眺め、西北には日光連山を望む大宝の舌状台地に位置する大宝八幡宮は、かつては大宝沼だった穀倉地帯の中にあって、鬱蒼とした木立の森に包まれ、檜の古木や大杉、大王松、銀杏などの大樹が現存する荘厳な神域である。南口三の鳥居と二の鳥居の間は、檜を主に杉その他の木々が天高く、鬱蒼と繁っている。二の鳥居の左手前には、昔この地に大宝城があり、南北朝時代の古戦場だったので、昭和九年、「大宝城跡」として国の史跡に指定されたことを標示する角柱が建っている。右手前には杉の巨木が立っており、思わず見上げてしまうほどである。

一の鳥居の左手前には「なべや」、右手奥には「えびすや」という茶屋があり、参拝客の一服、憩いの場になっている。昔から
団子が名物として知られている。四月と九月の例祭はいうまでもなく、春には桜、秋には菊祭りが行われ、多くの人出で賑わう。

神門を入ると参道両側には、崇敬者から奉献された狛犬が列をなして据えられ、拝殿前には、ひときわ大きな狛犬が一対左右に対座している。拝殿軒先には、これまた多くの崇敬者から奉献された吊り灯籠が眩いほどに連なっている。
 神楽殿の近くには、国歌に歌われている「さざれ石」が台座に乗せて祀られている。

社務所の南には御神木の大銀杏が亭々とあたりを睥睨するかのように聳えている。本殿と社務所の間には、幹周りが二メートル以上はある大王松がすっくと天に伸びている。本殿の裏に廻ると、檜の木立で昼なお暗いほどである。その中に特に太い直幹の一対の檜があり、しかも「連理の根」を成しているので、これを御神木「夫婦檜」と称している。そして御神木には、注連縄が締められている。この檜の木立に囲まれて「贈正四位下妻政泰忠死之地」と刻字された碑と「下妻政泰公碑」が建立されている。碑文には、南北朝時代の南朝の忠臣下妻政泰の事績が記されている。
 この檜の木立を進み、境内奥に出ると神苑があり、かつての大宝沼の一帯を眺望できる閑静な佇まいであり、訪れる人に安らぎをもたらしている。

(3) 大宝マチの由来
大宝八幡宮の春・秋の例祭は、近郷近在では「ダイホーマチ」とか、更に訛って「デーホーマジ」と、親しんで呼ばれている。
例祭は関東でも屈指の大祭の一つともいわれ、娯楽のなかった時代、昭和の頃までは、近郷近在の人たちにとっては最大の楽しみだった。小学校も臨時休校か早仕舞いになった。参道や境内には、家財道具から農機具、日用必需品の出店や露店の屋台が並び、サーカス、芝居、活動写真、見世物の小屋がかかって、境内は歩くこともできないほどの人出で賑わった。
 この年二回の「大宝マチ」の期間は、同時にそれぞれ市日として大市も開かれていた。むかし多賀谷氏が大宝八幡宮を深く信仰し、祭礼の八月十五日に領民を社頭に会し、流鏑馬の神事を催した際、領民が、作った物を並べて開いた市(いち)に由来するという。この地方では、祭りをマチと呼び、その際に開かれる市もまたマチと呼んでいた。要するに大宝マチというのは、大宝八幡宮の祭りと社前で開催される市とを意味していたのであるが、現在は時代も変わり、娯楽も商品流通も様変わりしてしまい、往時の市としての機能は自然消滅し、本来の大宝八幡宮の例祭だけを今も大宝マチと呼んでいる。

(4) 主な年中祭事
社伝によれば、大正時代には、追儺式(旧正月四日)、陪従祭(旧二月初卯の日と十一月初卯の日に斎行。源頼朝が、鎌倉の鶴岡八幡宮に諸侯を陪従させて、参拝した故事にならって始めたものという)、お墓前祭(初代別当久仁法親王の墓前祭)、新嘗祭(十一月二十三日)など多くの祭事もあったが、現在、大宝八幡宮で斎行されている祭事は、次のとおりである。
※ タバンカ祭とは、夜七時から始まる松明祭のことで、全国でも当宮でしか見られない珍しい火祭りである。その起源は、応安三年(一三七〇)大宝寺別当坊の賢了院が出火した際に、畳と鍋ぶたを使って火を消し止めたという故事を戯曲化したのに始まる。

◎ 奇祭神事「タバンカ祭」の概要
当宮の祭事の中でも特色のあるもので、九月十二日と十四日の二夜斎行される。
 日も暮れ、七時の太鼓の音によって祭りが幕を開ける。
この祭りは別名「冬瓜まつり」とも呼ばれ、冬瓜(とうがん)を神前に献ずるが、祝詞奏上の後、御神前に巴型に並べられた畳
の中央の鍋ぶたの上の素焼きの盃に御飯と冬瓜を一つずつ盛り付け、玉串拝礼の後、太鼓の音に乗って祭りの所役である白装束の氏子青年七名が、畳や鍋ぶたごとカワラケを拝殿前にほうり投げる。カワラケを拾った人は病気をしないといわれ、参詣の人々が競って拾い合う。
次に拝殿前に備えられた二本の大松明(麦わら製)に点火し、勢いよく燃え上がる火を囲んで畳や鍋ぶたを力一杯石畳に叩きつける。この時に発するバタンバタンという音からタバンカの名が起こったという。
この御神火で火を点けた松明を一束ずつ両手に持った所役二名が、振り回しながらかけまわる。それを四名の畳(一畳の四分の一)、一名の鍋ぶた所役が交互に火の粉を浴びながら追い掛けたり、逆に追われて逃げ回る。時として参詣の人が追われたりもする。
 これが終わり、畳、鍋ぶた所役は炎を上げて燃え盛る御神火を囲み、バタンバタンという音を響かせて叩きつけ、消火に努める様を演ずる。松明が燃えつき、祭りが終わるまでの約一時間は、社伝の八幡太鼓の音が鳴り響き、勇壮さをひき立てる。
この松明の灯りをもって十二日には、境内末社、十四日には、本社と若宮八幡宮の御幣が新しくされる。

◎ 特色ある「一つもの神事」の概要
奇祭「タバンカ祭」とともに、特色ある神事として、地元の伝承に基づいたという「一つもの神事」があり、九月十五日の例大
祭の夜に、現在も行われている。
 一つ目のわら人形を馬に乗せ、注連たすきをかけた青年が、社殿を三周、手綱は世話人が取る。そして人形を大宝沼に流して終わる。昔、青龍権現に若い娘を人身御供(ひとみごくう)にする風習があった。ある時若い娘の代わりに一つ目のわら人形を作って差し出したら、恐ろしがって以後人身御供の要求は無くなった、という伝承による。近年は馬の代わりに青年が一つ目のわら人形を奉じ持って運んだが、今年からはまた本物の馬を使用して行えるよう準備している。
「一つもの」の伝説については、次のように語り継がれている。
「むかしむかし大宝沼に大きな白蛇が住んでいました。秋になると、白蛇が大宝近郊の家の屋根に白羽の矢を立てます。するとその家では、娘を白蛇に差し上げなければなりません。差し出さなければ、白蛇の怒りにふれ、大嵐大洪水が起こり、農作物が穫れなくなります。そこで、近郊の人々が集まって考えた末、一つ目のわら人形を作って白蛇に差し出しました。それを見た白蛇は、びっくりして大宝沼から姿を消してしまいました。その後は村々に豊かな稔りが続きました。」
里人たちは、それを記念して旧八月十五日の夜に「一つもの神事」として行ったという。     
なお、白蛇の霊を祀った「青龍権現社」が、八幡宮境内に安置されている。